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「千里の孵化過程」
​     太田知也 著 From Rhetorica

かくして孵化された都市は、崩壊する宿命にある。廃墟は、われわれの都市の未来の姿であり、未来都市は廃墟そのものである。われわれの現代都市は、それ故にわずかな《時間》を生き、エネルギーを発散させ、再び物質と化すであろう。われわれのあらゆる提案と努力はそこに埋め込まれて、そしてふたたび孵化培養器が建設される。それが未来だ。

──磯崎新「孵化過程」一九六〇年

 

 §

 

 ──少女が走っていた──

 外で機関銃が鼓咆を放つ。

 ──音にびくりと震えて中断したのち、少女の走行は再開した──

「日本万国博覧会名誉総裁・皇太子殿下に、この〝お祭り広場〟の装置の、スイッチを入れていただきます。」アナウンスが告げる。

 ──アメリカ人、ロシア人、イギリス人……テレビの中でしか見たことのない|人種《ガイジン》を掻き分けて、おかっぱの少女は走っていた──

 くす玉が花開き、紙吹雪が舞い出て、白く聳える〝太陽の塔〟をパステルカラーに染め上げる。

 ──日本人の少女には、白人は物珍しく映った。とりわけ彼らの髪は興味をそそった──

 反復的な電子音が鳴り出し、|谺《こだま》する。その宇宙的な音は、未来の到来を告げるかのよう。

 ──近場の金髪に手を伸ばしたが、少女の体躯では届かなかった──

「ワタクシノ名前ハでめト云イマス。身長ハ、凡ソ一四メートル。」環境演出|装置《ロボット》の〝デメ〟が入場する。名前の通り出目金魚がモチーフの、その頭部からは二対のカプセルが飛び出ている。〝デメ〟は赤い衣装の吹奏楽団を引き連れ、広場の中心に躍り出る。

 ──前方の白人女性めがけて、少女が速度を上げた──

 電子音の谺を引き継いで、金管楽器が|行進曲《マーチ》を奏でる。聴衆は、溢れんばかりの拍手で迎える。

 ──長髪の女性から一本を抜き取った──

 曲目は〝世界の国からこんにちは〟。止まない拍手に負けじと、国際交流を高らかに謳い上げている。

 ──指に摘んだ髪の毛が、走る少女に黄金色の尾を引いた──

 法被を着た小学生の担ぐ神輿が入場して、祭りの音頭が谺する。式典の盛り上がりは頂点に達する。

 ──少女は停止し、手中の珍品を誇らしげに弄んだ──

 広場からは唸りのような音、獣の唸りにも似た音が近づいてくる。しかし未来的熱狂に囚われた会場は、音にまだ気づかない。

 ──金の一毛をよく見ようと、少女は太陽に透かしてみた。一毛が煌めきに照り返す様は、少女を満足させるに十分だった──

 獣の唸りはクレッシェンドで音量を増し、会場中の耳を支配する。

 ──見上げた視界の隅で、ちらと見た少女は気づく。〝デメ〟が煙を上げていた。〝大屋根〟のスペース・フレームに火が点いていた──

 かつて列島中を震え上がらせた音。それを聞いてなお生き残ったという事実が後の生を規定してしまう音。誰かに先立たれたという記憶と共に頭蓋の裡で反響を続ける音。高齢の者ほど敏感にその意味するところを察知して、身近な者の手を取り逃げようとする。子供はその不穏な響きを本能的に聞き取って、しかし駆け出すほどには意味を知らない。

 ──だから男が少女の手を引いた。小太りの男だった。取り落とした一毛をどこかに残して、男と少女は走り出す──。

 

 時に一九七〇年三月一四日。大阪府、千里丘陵──日本万国博覧会、開会式の〝お祭り広場〟。

 空襲警報が鳴っていた。その場の誰もと同じく、男は空襲警報を聞いていた。見知らぬ少女を親の許に還した後のこと。

「警報が警報であるからには、それに遅れて破局が訪れる。」──男はそう考えた。

 頭上のスペース・フレームに火が入った。──網状に組まれた鋼管フレームに沿い、燃えた。炎は次々とフレームを乗り継ぐ。フレームからフレームへ。ジョイントからジョイントへ。〝大屋根〟は元来、未来の空中都市を模して造られた。ならばその骨格を炎が乗り継ぐ様は、未来の高速鉄道網でのクライシスに|擬《なぞら》えられる。

 脚元では引火した紙吹雪の残骸がちりちりと燃えていた。広場中が煙火に包まれていた。熱気は男の|蟀谷《こめかみ》に汗を滴らせる。思わず背広の袖で拭う。

「火線は視えない列車が残す軌跡だろうか。」──男はそう解釈し、空中都市に走る列車を幻視する。

 火災に遅れて、防火装置の雨が降った。それに伴い、フレーム上の炎も煙に消える。脚元の紙吹雪がじゅっと鎮火するのを聞く。雨を浴び、男の眼鏡が水に滴る。男は視界の乱れを鬱陶しく思った。ぼやけた視界で、周りを見渡す。〝デメ〟が煙を噴き上げていた。が、それは着色された煙であり、煙火とは別物に思えた。

 ──と、横隔膜から突き上げる発作に、思わず男は咳き込む。誰もが咳き込んでいた。咳き込む者を見て、誰もが口に手をあて、遮蔽した。それでもなお、咳の|合唱《コーラス》は伝播し続けた。

 咳と共に、男の頭はくらくらとした蒙昧に冒されていった。理性の領域が限りなく小さく切り詰められていき、後に残ったのは、甘く気怠い快楽にも似た身体感覚。

「不可視の列車が煙に紛れてガスを運んだ……?」──獏とした頭で、男はそう推察した。そして雨は有毒ガスを拡散したのだ、と。

 徐々に煙った視界が晴れていく。

 真黒の巨大な顔貌がそこにあった。広場を睥睨する〝太陽の塔〟──恍惚に蕩けた男の視覚はそこに、悪魔を視た。

 幕引きとして、〝デメ〟が機械音声で囁き出す。──「是レハ環境的ニ演出サレタてろるデアル。」

 男は聞きつつ、考えた。──恍惚は過ぎ去り、理性があるべき場所に戻ってきていた。──演出されたテロル。すなわち、殺人や傷害が目的ではない、ということ。そこで男は、思考の襞に詰まりを憶えた。引っかかりと云ってもいい。演出されたテロル。その言葉は男をひどく狼狽させた。

「今回ハ|前哨戦《あゔぁん》ニ過ギヌ。」と〝デメ〟は云う。それに続けて、犯罪予告にも似たメッセージ。「大阪万博ノ会期中、再ビ何処ノぱゔぃりおんデてろるガ実行サレルダラウ。続ク本篇デ其ノ観客ハ更ナル混沌ト破壊ヲ目撃スル。──我々ハ反博ヲ考ヘル会デアル。」〝デメ〟をジャックした実行者らは、そう名乗った。

〝反博を考える会〟──その名前を耳にし、男は忸怩たる思いの渦中に落ちた。そうしてそのまま、悪魔の顔を持つ〝太陽の塔〟を見つめた。

〝反博〟──。男にとってそれは、呪いにも等しい言葉であった。大阪万博というイヴェントとの暗い因縁を呼び醒ます、悪夢的な一語であった。

 そして破局の意図を理解した。これは、〝反博芸術〟だった──〝お祭り広場〟を巻き込んだ、芸術家のパフォーマンスだったのだ。

 そう、背広に小太りな体躯を窮屈そうに押し込めたその男、彼こそは〝反博を考える会〟の設立者──小松|実《みのる》に他ならない。小松は不能感の中で独り言ちた──「解散したはずだ……。」何故に今更、実行者らは〝反博派〟を騙るのか?

 記憶に答えを求めるように、小松は回想の底に沈んでいった。

 

 時を遡ること五年──一九六五年末。

 雪のちらつく京都の料亭で、一つの会合が持たれた。大阪での万博開催が決定して程なく、いまだ千里丘陵は会場としての造成すら行われていなかった頃である。

〝第一回、反博を考える会総会〟──三人の構成員から成る、前衛運動の決起集会である。

 前衛美術家、瀧口しのぶ。

 環境建築家、レオナール・アサダ。

 SF小説家、小松実。筆名、小松左京。

 三者は夜通し議論を交わした。昭和について、敗戦について、反博について、万博について。

 美術批評家を父に持ち、シュルレアリスムなどの前衛運動に強く影響を受けた瀧口は、〝考える会〟における運動の側面を強調した。彼女の謂に曰く──「前衛は|出来事《ハプニング》として組織されねばなりませぬ。その実践者は演出家と呼ばれるに相応しかろうと思います。」こうして彼らは前衛としての芸術パフォーマンスを志向するようになる。

 ヒロシマの焼け跡を経験したアサダが、そこに議論を加える。曰く──「|建物《ビルディング》は無力だ。それに代えて|環境《エンヴァイラメント》の演出によって、建築家は反博を目指す。」万博の未来都市を廃墟に仕立て上げる反博芸術は、アサダによって方向付けられた。

 文学者として日本/昭和を見つめ、SF作家として未来/万博を見据える小松によれば、万博とSFには一つの共振関係がある。曰く──「未来を見通す技法のことを、SFでは|外挿法《エクストラポレイション》と呼びます。〝反博を考える会〟は、|万博《エクスポ》を使って、それをやってやろうと思うのです。」もとより小松独自の昭和史観に共鳴があったればこそ、瀧口とアサダは会に集った。故にそこで小松は思想的な指導者であった。

 小松の思想とは、曰く──「昭和史を眺めていると、興味深い符合が見つかります。西暦と和暦を対照しつつ、年表を眺めて御覧なさい。敗戦の一九四五年はS二〇ですね。──いやね、ほんの確認です。──そして、大阪万博の予定されている一九七〇年はS四五になる。戦後復興の上げ機運が万博を連れて来るんだと考えてみれば、云わばオセロみたいに、敗戦の黒が万博の白に入れ替わっている。」

 そこで瀧口が口を挟む。

「オセロよりは、写真の比喩が適切かと思います。──歴史の|陰画《ネガ》と|陽画《ポジ》が、二五年毎に重ね焼きされていく。そのようにイメージしてみるほうが実情に適っています。」

「比喩としては申し分ない。とはいえ、重要なのは二五年周期説の中身です。一九七〇年の万博には、一九九五年、つまりS七〇の未来を透かして見ることが出来るはずだ。──というより、未来を透かし見られるような万博に、しなくちゃならない。わたしはそのように考えているのです。」

 さらにアサダが応じた。

「ならば必然、一九九五年は再び昭和の|陰画《ネガ》になる他ない。千里は暗い未来を宿しているのだ。我々はそれを取り出す。」

 小松が冷静に同意する。

「あまり物騒にならんでもよろしいでしょう。しかしまあ、大意はあなたのおっしゃる通りです。万博というのは国家も企業も巻き込んだお祭りですから、勢い、そこでの表現は華美な未来を喧伝するものになりがちだ。でも、それだけじゃいかんでしょう。あえて〝反博〟を掲げるのはそのためです。暗さのほうにも眼を向けて、次なる二五年に備えること。ひいては、これは|二〇二〇《S九五》年の日本人にバトンを渡す作業でもあるのですから。」

 したがって〝考える会〟にとっての前衛運動とは、次のようなものになる。すなわち──各人が各人の領域から万博体制に関わりつつその立場を利用、暗黙裡に〝反博芸術〟を準備すること。それを経て、万博会場内で何らかのパフォーマンスを行うこと。

 そして一九六六年から一九六九年のあいだ、政府による万博の準備が国を挙げて行われていった。瀧口、アサダは、〝環境館〟というパヴィリオンの共同制作を任された。加えて彼らは、〝お祭り広場〟の基本設計にも助力した。他方で小松は、〝テーマ館〟の製作に招聘されることとなる。

 確かに彼らは優れた表現者であったが、|利己主義者《エゴイスト》でもあった。──とりわけ瀧口とアサダの両名は。多忙の中で美術家と建築家はことあるごとに対立、小松に調停不能な亀裂をつくった。各人の僅かな余暇を使い第二、三回と会を繰り返すも、その場の議論は醜い水掛け論に終始した。

 そこで積もった不和に、国家プロジェクトの責務と激務が重くのしかかった。──インディペンデントな前衛運動は、自ら対立するところの万博体制の荷重で押し潰された。

 そうして〝考える会〟は内破した。二人は反博の意志を捨て去ったのだ、と小松は考えた。万博体制に組み込まれていった美術家と建築家を蔑みさえした。〝反博を考える会〟の名前は小松に禍根を残した。

 

 けれども、瀧口とアサダ両名による〝反博〟は、密かに存続していたのであった。小松を蚊帳の外にして。──そう考える以外に、どんな答えがあるというのか?

「解散したはず、だったでしょう……。」もう一度繰り返さずにはおれなかった。

 そのとき小松を、不能の感覚が襲っていた。

 自分だけが観客席に取り残されたという不能。

 自分を措いて反博が行われたのだという不能。

 確かめねばならなかった。確かめねば気が済まなかった。解散したはずの彼らが、何を謀っているのかを。自分の与り知らぬところで何が行われているのかを──確かめねばならぬ。

〝デメ〟は云っていた──「再ビ何処ノぱゔぃりおんデ反博芸術ガ実行サレルダラウ。続ク本篇デ其ノ観客ハ更ナル混沌ト破壊ヲ目撃スル。」

 かつて同志であった小松には、確信があった。

 瀧口とアサダの手掛けた〝環境館〟──本篇の会場は、そこ以外にありえない。

 

 §

 

 清浄純白な|目抜き通り《ヴィスタ》。

 白色セメントで滑らかに整地され舗装された大通りが、三三〇ヘクタールの敷地をどこまでも白く染め上げる。

 白の圏域が未来を囲い込む──祝祭化された未来の展覧会場を枠付ける。その中では、明日への夢想をテーマパーク化したパヴィリオンが犇《ひし》めき合う。遠景からは、精巧に作り込まれた建築模型のように、それらは映る。

「美術展と違って、建築展には実物が無く模型ばかりだ──そう嘆く建築史家が居ました。」膨らんだ背広の胸元に向けて、小松は喋りかけた。

 ネクタイの傍から顔を出し、小松の愛猫であるヨシズミが応じた。「ミャーオ。」──意味を判じたかどうか、小松は知らない。額をごしごし撫でてあやしてやった。

 件の建築史家も、この万博会場には満足したのではなかろうか。パヴィリオンの前衛的威容が建ち並ぶこの風景は──床材の白が与える|展覧会場《ホワイト・キューブ》の印象も相俟って──まさしく|実物大《フル・スケール》の建築展と云うに相応しい。

 会場を南北に走るシンボルゾーンの南端、その高台にはエクスポ・タワーが窺える。鋼管のフレームが塔を成し、そこに絡まるかたちで手毬めいたカプセル住居が取り付く。カプセルの交換によって|新陳代謝《メタボリズム》を生じることが目指された、これはメタボリズム建築の一つの達成であった。

「空中都市……。」小松が呟く。人口増加と土地不足への解答として、メタボリストは空中や海上への居住を提案していた。

 会場を東西に貫く大通りから左右を見渡すと、静かな冷戦が行われている──代理の冷戦として宇宙開発を競い合う、米ソ両国のパヴィリオン。宇宙工学の粋を尽くした空気膜構造の〝アメリカ館〟が片翼を担う。その浮遊屋根の下には同じ技術の成果である〝月の石〟が展示され、長蛇の列を従える。他方の片翼から対峙するのは〝ソ連館〟。一〇〇メートル超のタワーから曲線屋根が裾を引き、塔状空間の内部では宇宙船ソユーズとボストークが展示される。それらを一目見んとし寒空の下に待ちぼうける入場者を、鮮赤色のファサードが威圧している。

「人類の辛抱と長蛇とは──云い得て妙です。」

「人類の進歩と調和」にこじつけ、会場の混雑を揶《や》揄《ゆ》する文句が囁かれていた。

 そのまま歩き、国内企業館の密集区画に入る。鉄錆色の〝せんい館〟を横切ったところで、それに出会う。

 基幹設計、レオナール・アサダ。

 構成演出、瀧口しのぶ。

 あらゆる万博パヴィリオンに違わず、その内に展示される未来像と建築的外観の一致が目指された象徴主義建築──〝環境館〟。

「環境と云えば、一昔前まで便所の汲み取りのことでした。──それが今や、立派な建築・美術のジャーゴンだ。」

 ところが〝電力館〟や〝自動車館〟など手早く未来を感じるものと比べてみたとき、環境という言葉は地味な印象を与えたらしく、長蛇の列は見られない。

「辛抱の甲斐がありませんな。」アサダと瀧口を皮肉るかたちで、口を衝く。

 うにゃァ、とヨシズミの相槌が引き取った。

〝環境館〟は遠目に見て、一つの寝そべる卵だった。卵形の躯体に張力を与える|補強材《ワイヤ》が地上に伸びる様は、さながら卵が脚を持ち、歩き出さんとするかのようだ。

〝環境館〟の内部は、卵を三つに|水平分割《スライス》した構造を持つ、三階建ての建築である。中ではフロア毎に異なる三つの観点から、未来の都市環境についての展示が行われている。

 来館者は、全フロアを垂直に貫く螺旋階段を導線として利用することになる。螺旋はドームの頭頂部を越えてなおも伸び、卵殻を突き破って空を目指す。

 

 第一のフロア。──そこは一面の森だった。広葉樹の群生。緑の広がる樹冠が頭上を覆い尽くす。眼前に開けるのはきらびやかな未来都市などではなかった。むしろ文明が終わった後で地表に姿を現わす原生林を思わせた。

 葉緑のランドスケープが小松に想起を促す。在りし日のアサダの謂を。

「──ビルディングは無力なのだ。我が国の建築史は、都市スケールの災害によって断ち切られてきた。大正の関東大震災、そして昭和の敗戦──わたしは広島を見てきた。建築家の作品が無に帰す様を見たのだよ。したがって地盤が揺れ、大量破壊兵器が落ちる国で取り組むべきは、工法を措いて他にない。壊される環境に適合し、すぐさま作り換えることのできる、作り方の開発だ。」

「住宅は不要だと、そういうわけですか。」記憶の中で小松が応じる。

「住宅はその都度作り換えられる。廃棄すべき概念は、地表だ。我々は考え方を改めねばなるまい。揺れる地盤に住み続けることもなかろう。」

「メタボリストの云う空中都市かい。」

「空中でも海上でもない──樹上の都市だ。それも原生林の樹上だよ。人が手を入れてしまった植生ではいけない。自然災害に立ち会えば、すぐさま死に絶える。しかし天然の原生林は強く、津波にも屈せぬ。だから軽やかな工法を携えた日本人は、鎮守の森に仮住まいする民族となろう。」

 小説家が要約した。「地表が野に還ろうとも、日本人は樹上に暮らす。」

 建築家が訂正した。「野に還ればこそ、だよ。」不吉な笑みだった。

 入口から見上げると、広葉樹の幹にスペース・フレームの構造体がまとわりついている。その内部には、円環状に樹幹を一周するドーナツ型の居住空間。樹上へとなだらかに続くスロープを通って、小松はその中に入っていった。

 細長くうねる空間は、まるで宇宙船のようだと、小松は感想を持った。巨漢の自分には狭すぎる、とも。そこにはユニットバスや仮設のベッドなど、最小生存環境としての機能の他には何もなかった。

 天井や通路に等間隔で走る継ぎ目が気になった。そう、このドーナツ型建築は──あたかもプラモデルのように──組立工法で実現している。継ぎ目は組み立ての名残りであった。こうした工法は以前アサダが手掛けた極地建築に成果を負っている。それは高熱地帯や極寒地での使用に耐えうる、耐火性と断熱性に優れた建築だった。

 小松は樹上の宇宙船を一周した。最後の区画には、アサダの手になる〝樹上都市〟のスケッチが壁掛けされている。巨匠めいて迷いのない描線で描かれたそれは、海に沈んだ列島から突き出る鎮守の森とドーナツ型建築を画題としている。

「野に還ればこそ──たしかに、そんな気もしてきます。」

 

 螺旋階段を上がって、第二のフロア。──幾つもの卵形ドームが並び、レーンに沿って整流されている。アトラクションを待つように、来館者が列を成す。

 小松の番になり、卵と対峙すると真白い|扉《ドア》に迎えられる。どこか抽象的な印象のそれを開いて中に入る。大人が一人で過ごすには申し分ない広さを備えた個室だった。

 室内で真先に眼に飛び込むのは、中央に設えられた椅子とサイドテーブル。次いで天井から伸びた銀色のダクトが、存在を主張する。ドーム壁面のぐるりには歪曲ディスプレイが嵌め込まれている。

 指示に従い、椅子に座る。何故か知れぬが|安全帯《ハーネス》の着用指示があり、小松はその通りにする。胸に斜めがけしたベルトの脇から、苦しそうにヨシズミが顔を出した。

「この部屋自体が乗り物だ、とでも?」愛猫に問うた格好となったが、もちろんヨシズミは人語を解さない。

 ディスプレイが起動、映像が始まった。

 馬が壁を走る。──キャップを被った騎手の跨る馬が映る。一九世紀末のエドワード・マイブリッジによる連続写真。速歩する馬の四足すべてが同時に地面を離れる瞬間があるかどうか、その論争に答えを出すため、マイブリッジが一二台の写真機を用いて撮影したもの。

 馬が走り──一種類目の映像──走る馬はいつしか|辻馬車《フィアークル》を伴っている──二種類目──馬車が走り、馬車は|鉄道の父《スティーブンソン》の蒸気機関車と溶け合う──三──機関車はレイモンド・ローウィの|流線型列車《ストリームライナー》に──四──ストリームライナーは地下鉄車両に移り変わって──五──そして車両は自身がその中を走るトンネルに追い抜かれ──六──地下鉄網が絡み合いつつ──七──分け入る襞を求めて路線が伸びゆき──八──集積の度合いを増した都市が現われ──九──ゴシック体の写植活字がタイトルバックで締め括る──|地下鉄都市《メトロ・ポリス》。

 それは一頭の馬に始まる、移動手段の発展史だった。鉄道が地表に線路を求めるように、あらゆる|移動体《モビリティ》は都市に|交通基盤《インフラストラクチャ》を求める。してみれば、高度に集積された地下鉄網は、最適化の果てに都市それ自体をも呑み込むだろう。

 なおも映像は続く──車両の内部に分け入り──一〇──起き抜けに|微睡《まどろ》む|通勤時間帯《ラッシュ・アワー》の列車内──一一──そこで静かに化学兵器が散布され──一二──微睡みは混沌の悪夢に堕ちる。

 連続写真を見ながら小松は、瀧口の謂を想い出していた。

「──シュルレアリスムにおいては、夢や無意識といった深層にある欲望──その象徴物としてのオブジェに重点が置かれます。」そう前置いて。「連続写真の発明によって無意識下の運動を捉えることが可能になった。とすれば、あらゆる被写体はオブジェと同じ位相に属するのだとも云わなければならないでしょう。」

「写真機は意識の光で世界を照らす。ひっくり返せば──無意識的な歩行のあいだ、わたしたちは夢中で歩いているのだと。いや愉快、愉快。」

 言葉遊びに満足気な小松に取り合うこともなく、記憶の中で瀧口は続ける。

「写真機を現代の都市環境に向けてみた時、どのような無意識がそこに見出されるか──それがわたしの興味です。」なおも続ける。「近代以降、人・物・情報の移動をより素早く、より効率的に行うことが求められています。都市は移動手段の加速と集積化を夢見ているのだ、とも云えるでしょう。」

「都市それ自体が移動のためのインフラストラクチャになりつつある、というわけですな。」

「そう。」美術家は頷いた。「この見方を推し進めてみた時、いささか具合の悪い事態を想定できはしまいか。高度な加速と集積化は、都市的テロルの被害を甚大なものにさせうるのです。あらゆるものが高速で動き続け、あらゆるものが滑らかに接続される都市においては、その一部を攻撃するだけで全体に被害を及ぼすことができてしまう。」

 小説家が問うた。「テロリストの眼で都市を見よう、と。」

 美術家が答えた。「進んで悪夢を見るのも美術家の仕事だ、ということです。」

 映像が巻き戻り、再び馬が駆け出した──一──走る馬はいつしか|辻馬車《フィアークル》を伴っている──二──馬車が走り、馬車はT型フォードと溶け合う──三──フォードはノーマン・ベル・ゲッデスによる|流線型の自動車《モーターカー・№9》に──四──モーターカーは移動型|退避壕《シェルター》に移り変わって──五──シェルターは自身がその上を走る|全自動高速道路《オートメイテッド・ハイウェイ》を伴い加速し──六──ダクトがシェルター同士を数珠繋ぎにして──七──個体が群を成し──八──群が都市を成し──九──ゴシック体の写植活字がタイトルバック──|自動車住宅《オートモバイル・ハウス》。

 鉄道とは異なる経路を辿った、移動手段の発展史。公共交通機関に比して、自動車はプライヴェートな空間を担保する。そこに住まう未来は、個人用シェルターと化した自動車住宅だ。

 映像は続く──車両の内部に分け入り──一〇──天井から伸びる銀色のダクトが写し出され──一一──そこから新聞紙と朝食プレートが転がり落ちてサイドテーブルに着地した──一二──映像は静止画に変わり、コミカルな調子のグラフィックで|待機セヨ《スタンバイ》と指示をする。

 画面の外の現実で、サイドテーブルめがけて新聞紙と朝食プレートが降ってきた。この部屋自体がシェルターというわけだった。

「テロルのリスクか密室暮らしか、どちらがより悪い夢なのでしょう。」

 云いつつ小松は部屋を出て、螺旋を登った。

 

 第三のフロア。〝環境館〟の展示室としては、ここが最後を飾る。

 大空間に、長い鯨幕が続いていた。──否、と小松はすぐさま認識を訂正した。葬儀に用いるそれかと見紛う長幕が、白黒のツー・トーンを交互に吊り下げられている。卵形の丸みを帯びた天井から吊り下げられた長幕が、一・二階と大きく異なるミニマルな展示空間を構成する。

 礼拝堂めいて荘厳な雰囲気に気圧されたのか、疎らな来館者たちは静かに展示を見つめている。

 長幕は皆一様にきのこ雲をプリントされ、白地の幕には|陽画《ポジ》が、黒地には|陰画《ネガ》がそれぞれ刷られている。

 ──敗戦の象徴、それがネガ/ポジ反転を起こす様は〝考える会〟の昭和史観に合致する。かつて小松が考案した昭和史観に合致する。

 きのこ雲に文字が折り重なるかたちで、出展者による趣意文が掲げられていた。

 

 §

 

 我々ハ二五年周期デ日本史ヲ考ヘル者デアル。敗戦ノ一九四五年カラ今日ノ一九七〇年ヲ経由スル。其ノ先ノ二五年トハ、如何ナルモノカ。一九九五年ノ未来、其レハ〝廃墟〟デアル。

 我々ハ次ノヤフニ考ヘル者デアル。

 日本史ハ二五年毎ニ断層サレテヰルノダ、ト。歴史ノ|陰画《ねが》ト|陽画《ぽじ》ガ共犯的ナ反転ヲ伴ヒナガラ、日本人ハ今日|迄《マデ》歴史ヲ紡ヒデキタノダ、ト。

 一九九五年。和暦ニ従ヘバ、昭和七〇年トイフ節目デアル。本年ノ一九七〇年トイフ数字ト、是レハ奇シクモ符合スル。

 我々ハ一九七〇年ノぽじヲ、|一九九五《S七〇》年ノねがノ上ニ重ネ焼キセントスル者デアル。昭和七〇年ノねがハ、今日ノ未来的熱狂ノナカデ巧妙ニ覆ヒ隠サレテシマツテヰル。万博会場ニ数千ノ列ヲ作ラセルぱゔぃりおんノナカニ、其レハ覆ヒ隠サレテシマツテヰル。我々ハ其レラ未来ノ陽画ニ敬意ヲ払ヒツツモ、其レガ否応ナシニ孕ンデシマツテヰル暗ヒ側面ヲ取リ出ス。

 蓋シ一九七〇年ガ日本史上ノ絶頂デアルノト同ジ理由デ、五〇年後ノ二〇二〇年モ又タ絶頂ヲ迎ヘテヰルダラウ。|一九九五《S七〇》年ノ陰画ヲ作ル事。是レハ|二〇二〇《S九五》年ヲ生キル世代ニ今日ノ栄華ヲ託ス為、必要ナ作業ナノデアル。

 

 昭和二〇年──西暦一九四五年、敗戦。

 昭和四五年──西暦一九七〇年、万博。

 こうして重ね焼きされる〝廃墟〟と〝未来〟の等式。そこに在るのはネガティヴな批判精神だけではない。暗さと綯い交ぜになってはいるが──よくよく目を凝らせばそこに、一|条《すじ》の昭和史的読解への意志を見出すことができはしまいか。

 何故なら、敗戦の礫土の中から万博の火が生じたこと──昭和はその証人だから。

 何故なら、焦土からの復興、復興に留まらぬ好況、好況の絶頂としての万博──昭和はその証人だから。

 二五年周期に従って〝廃墟〟と〝未来〟は反転する──これが〝考える会〟の昭和史観であり、これをそのまま推し進めてみた時、昭和史的事件としての反博芸術が批評の俎上に載せられる。

 昭和四五年──西暦一九七〇年、万博として迎えられた〝未来〟。

 昭和七〇年──西暦一九九五年、反博により展望される〝廃墟〟。

 昭和九五年──西暦二〇二〇年、それは再び明るいものとなる。

「わたしが……。」そうとだけ呟いた。二の句を告げず喉が詰まった。小松の裡には様々な感情が去来し過ぎ去り、また去来した。怒りか、悔みか、嫉みか。そのどれでもあってどれでもないような感情の奔流。しかし必ずしも敵対的なだけでもない昂ぶりまでもが、そこには含まれた。いずれにせよその流れは、一つの不能を巡る激流として在った。──わたしがこれを書くはずだった。

 それまで小松の腕の中にうずくまっていたヨシズミが背広を駆け下り床を駆け、きのこ雲を写した長幕の彼岸に消えた。

「君が見たがった光景だ。」彼岸から声がする。小松のよく知る建築家だった。

「わたしたちが実現した。」彼岸から声がした。小松のよく知る美術家だった。

 きのこ雲の脚元から、二人が姿を現わした。ヨシズミは女流美術家の脚元で喉を鳴らしている。

 優に五年を隔てた再会であった。

 いまだ感情を整理できぬまま、小松は云った。「久方ぶりですね──」皮肉で応じた。「──三者がこうして集うのは。」除名への当て擦りで取り繕うのが精一杯だった。

「確かに、我々は君に借りをつくった──」

「──貸し借りで済むとでも。」聞き終えぬ間にそう返した。その時小松の中に渦巻く感情は、怒りであった。趣意文の内容など、ほとんど小松からの剽窃と云ってよかった。

「〝考える会〟は解散した──そうでしょう。どうして今更、反博なのですか。」自分を蚊帳の外にして。

「あなたには純粋な部外者として、これを見てもらう必要があった。だからわたしたちは、あなたの許を一度離れた。」瀧口が答えた。

「答えになっていない。」一つとして理解不能だった。「あれは芝居だったのですか。」解散の要因──瀧口、アサダの諍いは、芝居だったのか。自分を体よく除名するための。

「演技ではない。事実、我々はこのパヴィリオンを巡っても、幾多の点で対立を見た。」脚元を指差し、アサダが答えた。「むしろ我々は衝突と議論の末に、〝考える会〟の必要を認識するに至ったのだ。」

「万博の準備のあいだ、国中が未来熱に浮かされていった。」瀧口がアサダを補足する。「反体制と前衛を掲げた美術家すらも、次々と万博体制に呑まれていった。それを見るのはわたしにとって、とても辛いことでした。美術がそんな様子では、ハプニングは起こりえませぬ。」そう云う瀧口の首にヨシズミがまとわりつく。襟足に周り、嗅ぎ回る。

「なお悪いことに──」アサダが継いだ。「──反博の論陣を張る批評家連中は、外野からの野次に終始した。日に増して未来的熱狂に色めいてゆく現場にあって、我々はそのことを痛感した。現場と外野は最悪のかたちで乖離していた。批評の機能不全。──万博会場で反博を行う者が必要だった。」

 各人が各人の領域から万博体制に関わりつつその立場を利用、暗黙裡に〝反博芸術〟を準備すること。それを経て、万博会場内で何らかのパフォーマンスを行うこと。

 瀧口が続ける。「左を向けば、目に艶やかなテクノロジー。右を窺えば、奇を衒った外国産のパヴィリオン。それらは派手さを志向するのみで、すぐに消費されてしまいます。|泡沫《うたかた》に|微睡《まどろ》み、醒めて忘れん。──放っておけば万博は、単なる未来の見世物小屋に堕してしまいましょう。わたしたちはそのように考えるようになったのです。」

 畳み掛ける二人の物云いを、小松は黙して聞くに徹した。

「ならば〝反博を考える会〟が目指すのは、万博から見世物小屋としての仮象を剥ぎ取る意味での反博に他ならぬ。昭和についての、あるいは日本についてのありうる未来を、論ずるための場であらねばならぬ。」そしてアサダが締め括った。「|人工物《デザイン》を通じてそうする場所が、万博なのではなかったか。──我々が行うのはそれである。」

 

 呑み込むまでに時間を要した。脚元に戻ってきたヨシズミを抱き上げ、間を継いだ。ヨシズミからは柑橘系の香水が匂った。瀧口からの移り香だった。

 二人は〝考える会〟について、小松が発案した当初よりもその反体制的含意を強めていた。小松の戸惑いはそこにあった。しかし、本質は変わっていないように思われた。──|外挿法《エクストラポレイション》としての|万博《エクスポ》。

「先ほどの趣意文──」おずおずと語りを開始した。「──つまり三階の展示を見ながら、わたしは複雑だった。剽窃への怒りも、解散への悔みも、御両人への嫉みも、もちろんありました。しかし同時に、胸を打たれもしたのです。今しがた御両人がおっしゃった反博のコンセプトが、見事に昇華されていた。」そこで一拍置いた。「わたしがこれを書くはずだった、そのように感じた。けれども今一つわからない。──一階と二階の展示内容、これらは反博の思想をどれほど反映しているのだろう。」

 建築家の口角が小さく持ち上がり、美術家へ短く目配せを送った。

 芝居めかして瀧口が答える。「六ヶ月ノ会期中、再ビ何処ノぱゔぃりおんデ反博芸術ガ実行サレルダラウ。──あなたをそこに招待させていただきます。」

 続ク本篇デ其ノ観客ハ更ナル混沌ト破壊ヲ目撃スル。小松は機械音声を想い出していた。

「お越しの際には|自由旅券《リバティ・パスポート》を忘れずに。」

 小松は小さな冊子を手渡された。

 

 §

 

 リバティ・パスポート。それは瀧口が美術家として友人に贈る、極めて個人的な連作のシリーズだった。表紙には抽象的な突起物が描かれている。それは鳥の|嘴《くちばし》に見えなくもない。手作りの冊子を開くと、中には自由詩がタイプ打ちされている。

 小さき雛が|冥《くら》さに喘ぎて甲斐も無く

 |松明《たいまつ》の|灯《あか》りに殻を透かす者が居る

 |実《じつ》に|虚《きょ》に入る作家なりしや

 各行の文頭に限って読むと小松実の名前が現われるアクロスティック詩。瀧口は懇意となった友人に、こうしたユーモアを贈ることを好んだ。

 どこかこそばゆい気持ちで小松は何度も詩を読み返した。とはいえ文意はどこか焦点を欠き、判然としない。

 否、小松にも文意は取れる。いまだ殻を破れるほどには成長し切らない雛の卵を外から照らし、それを窺う小説家が居る。しかし込められたメッセージが、皆目わからない。

 読解を諦めてページを繰る。見れば、身分証明の頁《ページ》に書かれた発行年月日が妙であるのに小松は気付いた。──これは近い未来の日付である。

 ならばその日が反博の日であろう、と小松は判じた。その推測が正しい限りにおいて、旅券が招待状でありうるはずだ。

 

 以前は来場者も疎らであった〝環境館〟。そこは今では大変な混雑に見舞われており、小松は黒山を掻き分け入場した。

 混雑の理由は三階の趣意文にあった。とある批評家がそれを読み、その内容に、去る開会式の反博声明と通ずるものを感得、〝考える会〟と〝環境館〟を結びつける推理を美術誌上で披露した。〝考える会〟の|犯人当て《フーダニット》が盛り上がっていた時期であった。

 記事を契機に、瀧口およびアサダを騒擾罪に問おうとする向きも生じた。公共の平穏を乱したことへの罪である。しかし批評文のみを根拠に、つまり〝環境館〟の責任者だからという理由での、懲罰は難しい。何より、警察としては物証に欠けた。未だ捜査は、先の事件で現場となった〝お祭り広場〟の関係者を洗っている段階に過ぎなかった。

 マスコミからの取材に対しても、瀧口、アサダの両名は努めて寡黙にコメントの拒否を続けた。──いずれにせよ、議論の渦中にあった〝環境館〟は、日本中から着目されるパヴィリオンとなった。

 第一のフロア。夥しい数の人が〝樹上都市〟を見物している。内心、小松は焦燥していた。彼はその場でただ一人、今日がその日であることを知る者であった。その日のあいだに破局がもたらされることを知っていた。

 小松は瀧口のパスポートを受け取って以来、逡巡の中に置かれた。よほどすべてを告発してしまおうかとも考えた。〝考える会〟は瀧口、アサダによるものであり、〝環境館〟が次なる現場だ。──そう触れ回ることもできた。けれども、何かがそれを押し留めた。

 一つには、己の思想が。反博の実行が必要であるとの小松の思想は未だ燻っていた。もう一つには、瀧口の詩文が。短い自由詩は、そのメッセージが解かれることを欲しているように思えた。

「故に作家はここに在らん。」そっと小松は返歌した。

 混雑列を待つあいだ、改めて〝樹上都市〟を観察する。巨大な樹木にドーナツ建築が取り付く様は、さながら鳥の巣であった。構造体に仮宿りし孵化を待つ卵を、小松は幻視した。もとより〝環境館〟それ自体が卵を模す故、これは入れ子になった卵であった。

 次いでパヴィリオンの構造を観察する。螺旋階段を|蔦《ツタ》に見立てた時、それが絡まる相手の支柱はガラス面の|空洞《ヴォイド》である。ヴォイドは一、二、三階すべてに吹き抜け、のみならず卵形建築の天頂にまで達する。内部に囲い込まれた外部という点でも、これは正しくヴォイドであった。

 観ている内に、腕の中でヨシズミがごねだした。強く小松に抗う。小松は放してやった。──愛猫には逆らわないことにしている。背広を滑るように下っていった。仕方なく、小松は列を外れて猫を追った。

「また並ばなくてはいけませんね。」

 そこは螺旋階段の陰だった。追いつくとヨシズミは、ヴォイドのガラス面に顔を寄せ、一部を嗅ぎ回っている。抱き上げて額を撫でた。──動作が既視感を呼び覚ました。視界にではなく、云わば嗅界に。

 柑橘が香っていた。パスポートを寄越した美術家の香水だった。だからその場ですぐに見つけた。表紙の装画、嘴|様《よう》の抽象突起がガラス面から突き出ていた。ぐいと引っ張り、大ガラスが扉に変わった。そのまま入る。

 垂直に立ち昇るヴォイドの中に居た。もとより空洞に中があるかの議論は、今は措く。後ろ手に扉を閉めた後、脚元からする機械の作動音を聞く。|具体音楽《ミュジーク・コンクレート》にこんなのがあった、小松はそんなことを考えていた。

 その間、徐々に床が持ち上がった。ゴンドラ状のリフトであるらしい。森を一面に見晴かしつつ上昇した。

 ──そうして破局が訪れた。恐らくはそう、小松の上昇と同時に、それは始まった。

 由来の知れぬ炎が樹木を上がった。一つの樹冠が燃え、別の樹に触媒を探す火が燃え移り、なお燃えた。

 螺旋に並ぶ者たちからまず、一目散に逃げ出した。小さな矢印の群れ──群衆が方々へ駆け出す。押し合いへし合い、倒し倒され。樹上の居住者は逃げるのに苦労を要した。飛び降りられる高さではない。〝樹上都市〟は救いようのない混沌を呈していた。極地仕様のドーナツ建築が辛うじて延焼を防いでいた。必然、人々はその中で火災をやり過ごすことに決めたようだった。

 小松はゴンドラで高みへ運ばれながら歯噛みしていた。その感情に言葉を与えるならそれは──またしても──不能であった。その場の皆と状況を共にしていながらしかし、このヴォイドだけは唯一絶対の聖域として疎外されていた。なお具合の悪いことに、悪趣味に云えばこここそが特等席だった。決して状況に介入し得ない不能な観察者のための、そこは特等席であった。

 周囲が混迷を増す速さに比して、垂直の移動はあまりにも鈍かった。故にこれを仕組んだ者は明確な意図を持って、小松に破局を見せていた。森の発火と小松の上昇が同期したことを踏まえても、そう考える他ない。

 不能者に許されるのは観察、それと解釈、この二択しかない。そして解釈が引用を呼び寄せた。

「小さき雛が冥さに喘ぎて甲斐も無く」──詩文の一行目。眼前の状況がそれだと云うのか。ドーナツ建築に囚われた来場者が|盲《めくら》の雛に見立てられているのだ、と?

 上昇する小松は〝樹上都市〟を見送って、二階部分に到達した。

 そこにも破局が訪れていた。

 オートメーション化された自動車住宅、それらが来場者を乗せたまま、車体を打ち付け合っていた。惨たらしいまでの破裂音と擦過音が谺する。|激突《デュエル》、あるいは|衝突《クラッシュ》。

 テロルへの対抗策としてシェルターに引きこもったはずの居住者は、その内に閉じ込められ自動操縦の為すがまま──乗り物を象った展示室の|安全帯《ハーネス》に助けられてはいるものの──、無茶苦茶に引き回されていた。ドーム状のシェルターがぶつかり合って生まれた衝撃力が、互い同士に穴を穿つ。

 不能者の解釈機械が作動する。小松は考えていた。──ここにも卵の隠喩系。

「松明の灯りに殻を透かす者が居る」──詩文の二行目。前半部の「松明の灯り」は、火災の第一フロアから持ち上がった小松を示唆する。であれば後半部も符合する。「殻を透かす」──割れたドームは、孵化過程で破れた卵殻を見立てたものに他ならない。

 

 ここに至って小松は確信した。〝環境館〟に災厄をもたらす、自分は使者であった。瀧口とアサダに謀られたとはいえ、自分が破局の引き金となったことに変わりはない。

 小さき雛が冥さに喘ぎて甲斐も無く

 松明の灯りに殻を透かす者が居る

 実に虚に入る作家なりしや

 旅券の署名にある通り、作家の名前は小松実である。

 

 §

 

 第三のフロアでは、下階から逃げ延びた人々が安堵していた。そこでは何事も起こっていないようだった。ヴォイドから上昇してくる小松をガラス越しに見て、その場の誰もが訝しんだ。訝しんだが、互いに何をすることもできない。

 そのまま昇り、辿り着く。ゴンドラが停止した。既に純なる外部のこの場所は、もはやヴォイドとは呼べぬ。

 ──〝環境館〟屋上。螺旋階段は、ここまでは通じていない。螺旋の先が解けて乱れ、裂けたリボンの如くのたくっている。そのうちの幾つかは先端をさらに伸ばし、小松の頭上を越えてなお伸びる。

 背後でゴンドラが階下への沈降を開始した。消防車のサイレンが、高度三〇メートルを隔てた地上に響いていた。それに前後して、小松は気づく。二階の轟音は、小松の到着と同時に止んでいた。

 のたくる螺旋に腰掛けて、二人の|悪役《ヴィラン》がそこに居た。

「これであなたも、前衛の運動史に名を刻んだ。」美術家が出迎えた。その瞳は正気に澄んでいた。

「祝おうではないか。〝考える会〟の再結成を。」建築家が歓迎した。道化めかして、不可視のワイングラスを傾けて。

 これで三人のヴィランが集った格好だった。

「恋文でないことはわかっていました。──が、よもや呪詛の言葉であったとは。」旅券の発行者を見据え、小説家は云った。

「君が見たがった光景だ。」いつかの台詞をアサダが繰り返した。「期待には応えた、そう自負している。」

「五年前の料亭、ですか……。」決起集会を想い出していた。熱っぽく反博について語っていた頃の自分を。「確かにわたしは、反博を志した。──御両人がわたしの許を去るまでは。まあ、それについて蒸し返すのは止しましょう。どうあれ、その頃の思想はこうして現実化した。」そこで|一寸《ちょっと》考えた。「先日わたしは御両人に尋ねましたね──一、二階の展示はどれほど反博に適っているのか、と。」

 二人が頷く。流れに任せて小松が続けた。

「本日示された破局、それが解答であったと、わたしは推察しています。」そこで考えを整理するため一拍置いた。解釈機械が言葉を紡いだ。「自ら設計し構成した展示を、自ら破局に叩き込む。この意味は何でしょうね。──それは未来を|実演《デモンストレイト》したり、|演算《シミュレイト》するためではない。そうではなく、正しく未来の都市を|外挿《エクストラポレイト》するためだった。外挿法は何らかの初期条件をそのまま延長し続ける思考法です。たとえそこに具合の悪い未来が含まれたとしても、外挿された未来は停止しない。」

 そこまでを一息で云い終えた。解釈機械も停止しない。

「どういうことか、説明しましょう。一階、〝樹上都市〟。そこで火災が起こった。あなたはかつて云いましたね──」アサダに向けて云った。「──鎮守は地震と津波に強いのだ、と。けれども火災は、どうにもならんのですね。自然は自然の摂理に従って、自然に山火事を起こすものです。あなたはもちろんそのことを知っていた。しかしそこで思考を停止し提案を取り止めすれば、何も生まない。地震と津波への対応策として〝樹上都市〟が現われたのと同じ論理で、やがて誰かが山火事への対応策を引き継ぐだろう。故にあなたは、自身のプランの欠陥を隠すのではなくむしろ開陳してみせた。これほど大掛かりに──誰もがこの主題に対して真剣に取り組むくらい大袈裟に、それをやった。」

 アサダの謂を引用し小括した。

「かようにデザインを通じて未来を論ずる場所が、万博なのではなかったか。──それは自身の提案すらも相対化する外挿法によって可能となりましょう。」

 上気してきた顔をヨシズミが舐めた。その舌で頬がひんやりした。

「二階、自動車住宅。そこでの破局は狂った機械の事故だった。あなたは云いました──」今度は瀧口に向けた。「──都市の加速と集積化は、テロルの被害を甚大にさせうる。あなたの提案はまずもってそこに発する。だから鉄道が辿るであろう交通手段の発展史に見切りをつけて、自動車という別の歴史に分岐・延長したわけです。そこは全自動化されており、云い換えれば偶然に満ちた都市経験を取り除かれた未来です──何故なら、都市の偶然性は時にテロルをも許容しうるから。故にそれをバイオテロの危機ごと取り除いた。でも、あなたは知っています。全自動の都市は、別様の危機に開かれている。例えば自動化機構を擾乱し、自動車同士をクラッシュさせるというような種類のテロルに、ね。」

 瀧口の|文体《スタイル》で小括した。

「夢見にし、悪夢なれども正夢ならず。──ユートピアにディストピアを絶えず嗅ぎ取る外挿法が、悪夢の到来に遅延を持ち込む。」

 即興にしては悪くない出来に思えた。最後の一節を開始した。

「ドーナツ型建築が極地仕様で火災に強いという点も、最初から織り込み済みだったんでしょう。単なる演出に過ぎないと思われた、二階の|安全帯《ハーネス》と同様に。御両人の目的はあくまで反博芸術──死者や怪我人を出すことではない。」

 

 その間の一切、二人が口を挟まず続いた講釈を一気呵成に語り終え、解釈機械が停止した。

「けれども、これだけはわからない。何故わたしを呼び戻したのか。手の込んだ観覧席まで用意して、何故わたしに見せたのか。──勝手におやりになったらよろしかった、そうでしょう……。」

 地上三〇メートルの高みから万博の全景を見渡し、瀧口が口を開いた。

「ここにあるすべてが、数ヶ月後には儚く消えている。未来は消費期限付き──半年限りの生命というわけです。とはいえ命の短さを嘆いてみても仕方がない。問題は、いかにこの期間で効果を最大化するか、いかなハプニングを生ぜしめるか、なのですよ。」

 アサダが附言した。

「〝|即席都市《インスタント・シティ》〟。──万博自体がそれなのだ。永続と定住を目指さぬ時限付きだからこそ、これだけの奔放さでパヴィリオンが華開く。そして〝反博を考える会〟もまた、それと同じ宿命を負っているのだ。我々は|短命《インスタント》な存在なのだよ。これだけの奔放さでハプニングを起こせば、我々の進退は決まったも同然。」

 美術家が云った。「わたしたちは表舞台から消えるのでしょうね。」その時に限って何かを惜しむ眼差しだった。云い終え近づき、小松の手からヨシズミを抱いた。

 建築家が云った。「歴史だけが我々の価値を裁定する。」あくまで力強かった。「そこにこそ、君を呼んだ意味が存する。」

 小松は突然に水を向けられた。

「あなたには純粋な部外者として、これを見てもらう必要があった。」いつかの台詞を、瀧口が繰り返した。「わたしたちの反博、その価値を最大化するためにあなたが必要だった。──充分な釈義を込められる、ただし示し合わせた者でもない、歴史の書き手が。」

 いつかの開会式場で刻印された不能。

 三階で趣意文に対峙したときの不能。

 先のヴォイドに仕組まれていた不能。

 ここまで含めて、彼らは周到に伏線を張っていたのだった。状況に介入し得ない不能者に許されるのは観察、解釈、それと定着、この三択しかないようだった。反博の歴史を書くこと──最後の選択肢がこれに当たる。

 

 沈黙が流れた。ヨシズミが小松の許に戻ってきていた。ごろごろと喉を鳴らす。

 小松が再び口を開いた。

「御両人のオファーを安請け合いするわけにはいきません。が、おっしゃりたいことはよくわかりました。」小松は曖昧に答えた。まだ訊きたいことがあった。「最後に質問を一つ──三階を破局から隔離した理由は、何だったのでしょう。」

 瀧口とアサダが薄く微笑った。彼らの笑顔を見たのはいつだったか、小松は想い出せない。すべての|細部《ピース》が予定調和に機能した。すべてが計画通りに着地した。──微笑は、そんな瞬間の悪役にうってつけのものだった。

「これだよ。」

 二人が駆けて、垂直の奈落へ向けて跳躍した。慌てて追って下を窺う。螺旋が絡み合い、ただ虚無の周りを下降する。人影は見えず、見えたところでどうにもならぬと知ってもいた。──ヴォイドの戦略、そんな言葉が浮かんで消えた。小松は床にへたり込み、最後の解釈を己の中に|展《ひろ》げた。

 一階──展示担当、レオナール・アサダ。

 二階──展示担当、瀧口しのぶ。

 これを推し進めた時、空欄を埋めるのは容易い。内容から云っても、これが自然だ。

 三階──展示担当、小松実。

 小松が二人に破局を招いた、そう見えるよう演出した。だから彼らは身投げした。〝環境館〟を舞台に繰り広げた、上昇と下降のゲームを終わらせた。

 しかし、と小説家は自分自身に反駁した。どこまでも底意地の悪い知的遊戯を嗜む彼らは、常に被害者を出さないかたちでゲームをしてきたのではなかったか。

 

 §

 

 事の顛末は以上の通り。

 歴史は作家の領分である。──想像力の|三稜鏡《プリズム》から歴史を透かし見る。史実を歪ませ、誇張し、切り詰め、そこに胚胎されている一つの核を照らし出す。

 千里丘陵に揺藍する、卵形のパヴィリオン。──それが孵化し、いまだその眼球を薄膜に覆われた雛が殻を割る。嘴を世界に向けて突出、雛はそこから実存を開始する。

 その過程を見届け、これを記録し、歴史へと継起を促すこと。

 万博と昭和に対峙するための、それがわたしに可能な反博であった。

 なればこそ、わたしがこれを書き終え、そして読者──つまり、あなた──が読み終えた時点で、SF小説家にとっての反博は果たされたことになる。

 そこから先は、云わば祈り人の領分である。

 わたしは祈ろう。

 |一九七〇《S四五》年を、か弱き雛が飛び立つ。──離昇の成功を!

 飛び立つ雛が、|一九九五《S七〇》年を飛び翔ける。──旅路の無事を!

 千里の時空を翔けてのち、新世紀を迎えた日本で、次なる卵を産み落とす。──生命の誕生を!

 そして最後には──甘き死の到来を!

 こうして昭和の雛は役を終える。継ぐのは誰か?

 

 〈了〉

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